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教育の必要性について考える 〜貝塚茂樹先生との対談を通じて〜

 先日、「愛国心とは何か(扶桑社新書)」の著者である教育学者・貝塚茂樹先生とオンライン対談を行いました。結論から言うと、大変有意義で、深い議論ができたと感じています。実のところ、本書を読み終えた後、勢いでご連絡をしてしまった経緯もあり、対談直前までは「どのように話を進めようか」と悩んでおりました。しかし、画面がつながった途端に大変気さくに挨拶をしていただいたおかげで、私自身も肩の力を抜き、自然体で対談を始めることができました。

 この対談の中で、私が最も意識していたのは「これからの教育に対して、私たちに何ができるのか」という問いへの答えを見つけることでした。

 午後1時から始まった対談は、気づけば2時半を過ぎており、時間を忘れるほど充実した内容でした。議論は、日本の教育の歴史、世代間の価値観の違い、公教育と私立教育の在り方、教育改革の難しさ、そして日本人のアイデンティティーにまで話が広がりました。

 「愛国心」という言葉の持つ意味が世代ごとに大きく異なる日本において、これまでは簡単に愛国心という言葉を使うことさえできない言論空間となっていました。しかし近年になり、若い世代を中心にある意味で隔たりなく、中間的に、「愛国心」を考えることができるようになってきたのではないかと感じています。これからの時代は、「右」や「左」といった枠を超えた包括的な議論が必要だということが再認識できましたし、若い世代が中心となる数十年先には、「愛国心」という言葉をもっと公平に考えることができる言論空間となっているかもしれません。

 対談で特に重要だと感じたことは、日本人の特性やアイデンティティーについての議論です。明治維新、大正デモクラシー、戦中の軍国主義、戦後の自虐史観といった歴史の大転換期には、必ず世代間の対立と反骨精神が存在していました。そしてその背後には、日本人独特の「空気感」があったのではないかということです。たとえば、コロナ禍において感染者やマスク非着用者に対する過剰な反応は、日本人がいかに空気に影響されやすいかを象徴していると思います。短期間で社会全体の空気感が大きく変化し、異なる考え方を持つ人々が孤立する。それは非常に危険な傾向です。

 このように「空気感」に支配されやすい背景には、教育の問題だけでなく、日本人に主体性が不足していることがあるのではないかという話にもなりました。もちろん「空気を読む」ことは長所でもあります。しかし、極端な思想へと一気に流される危うさも含んでいます。実際、日本人が集団として一方向に動き出したときの力は非常に大きく、戦前のアメリカもその特性を研究していたという歴史があります。

 もし日本人に主体性が本質的に欠如しているとするならば、いくら教育を改革しても根本的な変化は難しいのではないかという疑念も残ります。日本は長らく外敵の脅威が少なかった島国であり、江戸時代の鎖国政策の中で「国」という概念も希薄でした。「愛国心」という言葉が教育に登場するようになったのは明治以降のことです。

 では、これからの教育において、私たちに何ができるのでしょうか。

 日本という同質的な民族社会の中で、理系や文系の枠を超え、政治的立場にとらわれず、集団を大切にし、他者を認め、その中で「個」を磨く。そういった教育こそが必要だと私は考えています。

 しかし、現代社会では「多様性の尊重」「個別最適化」が強調されすぎるあまり、逆に「個」を失うような教育になってはいないかという懸念もあります。特に若い世代に対する教育において、学力で優劣をつけない、運動会で勝敗を決めない、発表会では全員が主役になる。そうした方針は、一見「個を大事にしている」ように見えますが、結果として自分自身で感じ、考え、行動する力が育たなくなってしまうのではないかとも思えます。このままでは、日本人はやがてロボットのように、自分自身で判断できない集団になってしまうかもしれません。

 もちろん、歴史的に見れば、そうした時代を打破しようと、新しい世代が中心となって、また新たな「変革」が起きる可能性もあります。それは止められない大きな流れなのかもしれませんが、反骨精神が助長されて悪い方向へ進む危険もあります。

 対談の中で出てきた「知識人」という言葉も、非常に印象的でした。将来を客観的に捉え、日本の立ち位置を冷静に見つめることができるような人が増えることで、極端な思想の変化を抑えることができるのではないか。そう感じました。

 私自身も、そうした知識人にならなければいけないなと改めて感じました。

 
 
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